[ 入院9日目 ] 母が叱られる

2016/10/21 | trackback [ 0 ] | comment [ 6 ] | がん告知まで


導尿のカテーテルを外してからは、尿意をもよおすたびにナースコールをして、看護師さんに介助してもらいながら病室内にあるトイレへ行き、下着を下ろすのまで手伝って貰いながら用を足していた。
トイレで用を足せることになってすぐ、どういう要領で移動すれば楽なのかを看護師さんたちといろいろ試し、コレだ!という動きを見つけていた。

ベッドからトイレへの移動は、まず右膝を立て、70度まで上げて背中をつけているベッドから、左肘を使って上半身を起こし、手と右足を使いながら身体を左向きにして、左足をベッドから降ろすところから始まる。
腹筋を使うと上半身に激痛が走るので、一連の動作の要所要所で看護師さんが力を貸してくれる。
介助をしたりされたりした人はわかると思うが、力を貸すタイミングも力加減も、実はとても難しい。
慣れた看護師さんたちは、「次はどうします?」「じゃあいきますよ。せーの」と、こちらと息を合わせてやってくれる。
ところが、不慣れな人はどうしても、闇雲に手を添えて必要以上の力を加えるか、力を加えずただ手を添えるだけ、のどちらかになってしまうようだ。
看護師1年生は、前者だった。

右膝を立てようとするあたしを見ず、横から背中に腕を回して、何の合図もなく力まかせに身体を起こそうとする。
早速、牧さんの指導が入った。

「いやいや、ちゃんと見ろって。足動かしてるっしょ」

はたと気づいた看護師1年生が、中途半端に起こした背中からさっと腕を抜くと、牧さんは、

「乱暴にすんなよ」

と言いながら、素早くあたしの上半身を支えてくれる。
「すみません」と言った看護師1年生だったが、今度は、あたしが自力で、お腹を圧迫しない程度に丁度良く立てた右膝を更に立てることにしたらしく、右足首を両手でしっかり掴むと、渾身の力をこめて足をお尻のほうに近づけようとした。

「こら、余計なことすんな」

こんな牧さんの指導は、あたしがトイレの便座に座っているあいだもずっと続いていた。



人は失敗しながら成長していく。
看護師1年生が、牧さんに注意された意味を完全に理解する日はまだ先かもしれないが、患者たちから絶対的に信頼されている牧さんの仕事ぶりから学ぶことはたくさんあるはずだ。
失敗を糧にできるかどうかは本人次第だけれど、きっと看護師の誰もが、牧さんだって、きつい先輩や優しい先輩からたくさんのことを教わり、学び、泣いたりしながら成長したはずだし、いまもそうやって成長し続けているだろう。
がんばれ。がんばれ、看護師1年生。

…と、厳しい先輩と新人のやり取りを微笑ましく眺めていたのだが、ふたりのやり取りをもどかしく思っていた外野がいた。
母である。



娘が不器用に介助されているのを黙って見ていられない気持ちはわからなくもないが、ちゃんと見ていれば、牧さんがしっかりカバーしてくれていることにも気づくはずだった。
実際、看護師1年生のためにあたしの痛みが増すことはなかったし、いつもよりちょっと時間がかかったくらいで、結果的には難なく用を足せているのだから。



用を足したあたしは、トイレを囲むカーテンの内側から、「終わりました」と声をかけた。
すると、パタパタという足音をともに、「あのね、こうやればいいんじゃないかしら」という母の声が聞こえた。
どんなことを思いついたのかは知らないが、あたしは胸の内で、「プロの牧さんが見てる前で、よくもまあいけしゃあしゃあと…」と呆れながらカーテンを開けた。
すると、左側には看護師1年生が、そして右側には、何かをやらかそうとしている母がいた。

母は、大人を介助したり介護した経験がない。
それと、娘に栄養の全てを吸い取られたかのように細い。
確かに昔は、〝細いわりに力があるほう〟だったけれど、そこから数十年の時が経ち、御年73。
普通に考えれば、心労でますます痩せ、体重40キロを切りそうな73歳が、60キロを超える娘の補助ができるとは思えないのだが、母は、自身の老いへの自覚が随分足りなくて、昔出来たことの大半は今でも出来ると思っているフシがある。
お母さん。できなくていいんだよ。
全然頼りにしてないから。



そんな娘の想いに気づかない母は、やる気満々だった。
足を少し開いて、膝を曲げて体勢を低くし、便座に座っているあたしの右手を取ると、自分の左手を、あたしの右の肘に添えた。
そして、「はいっ!せーのっ!」と声を張った。
声を、張った。
その場にいた4人のうち、〝あたしが右手にぐっと力を入れようものなら、母は間違いなく、いとも簡単にこちら側に引っ張られる〟という想像ができていないのは、やる気満々で声を張っている老人ただひとりだった。

ひとりだけオチを知らずにコントを続けているかのような母に向かい、



「無理だっつの」



と言ったのは、あたしではなく牧さんだった。
牧さんは、看護師1年生に指導していた流れそのままに、同じ口調でつい、母に言ってしまったのだった。

「ああ、間違っちゃった!ごめんなさい!つい!ごめんなさい!」と慌てる牧さんに、「へっ?」と言いながら振り返る母。
笑いを噛み殺す看護師1年生と、我慢しきれず吹き出してしまい上半身の激痛に襲われているあたし。
そこにいる全員が機能不全に陥るなか、最初に抜け出したのは牧さんだった。

「お母さん。大丈夫です。任せてください」
「でもなんだか大変そうで」
「大丈夫です。それに、立ち上がらせるのって結構、コツと力がいるんですよ」
「私、こう見えて力持ちなのよ」

母は、本当に面倒な人である。
こうなると、ぎっくり腰になろうが肩を脱臼しようが、意固地になってあたしを立ち上がらせようとしかねない。
仕方がないので、ちょっとだけ、ほんとうにちょっとだけ、母の手に力を入れてみた。
すると、腕の力だけしか加えていないにもかかわらず、母は、「うわっ、チカラ強っ!」と言ってようやく手を離した。
そして悔しそうに、「できると思ったのよー」と言った。



デブなめんな。



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■ 経緯

2012年12月:ひどい腹痛と呼吸困難で総合病院の救急外来へ。入院。左卵巣が破裂していると言われる。転院。余命1ヶ月未満と診断される。破裂した卵巣の摘出手術後、左卵巣がん(類内膜腺がん)3c期と告知される。抗がん剤治療開始。

2013年01月:ヅラをかぶる。
2013年02月:「ヅラが飛びそうな強風のため」という理由で休もうとするも会社のボスに却下される。
2013年05月:抗がん剤治療終了。
2013年07月:子宮、右卵巣、リンパ節などの摘出手術。
2013年08月:再び抗がん剤治療開始。術後腹壁瘢痕ヘルニアの予兆。
2013年10月:抗がん剤治療終了。月1回の通院で経過観察へ。術後腹壁瘢痕ヘルニアと診断される。

2014年02月:術後腹壁瘢痕ヘルニア手術。
2014年04月:CTの結果を経て、すべての治療終了。
2014年10月:抗がん剤治療終了から1年経過し、通院が2ヶ月に1回となる。ヅラを脱ぐ。
2014年11月:健康診断で人生最重量を記録する。

[ 入院9日目 ] 母が見た夢の話を聞かされる

2016/10/20 | trackback [ 0 ] | comment [ 2 ] | がん告知まで


後に見せてもらうことになる入院5日目に撮影された胃カメラ画像の酷さを思えば、「重湯だろうが三分粥だろうが食べられなくて当たり前だろ。むしろ、よく食べさせたな」と思うのだけれど、胃腸の惨劇をそこまではっきり認識していなかったこの時は、朝食の三分粥を二口食べるのが辛くて怖いという自分に驚いていたし、少し凹んでもいた。
内臓の痛みは初日とは比べ物にならないほど弱くなっているのに、胃腸の本来の機能を使おうとすると痛みが初日に逆戻りするという現実に、どうしても、暗い未来を想像してしまった。
やはり、食べることも、横になって眠ることも、大きく息を吸い込むことも、動くことも、笑うことも、泣くことも、どれもできないままどんどん弱っていくのではないか、と。

元々ポジティブ思考ではないけれど、かといって、極端にネガティブになって神経を磨り減らすこともしていないつもりだった。
不測の事態が起きた時、慌てず、感情的にならず、客観性をもって冷静に判断するという、年相応の対応力が身についているはずだと信じていた。
でもダメなんだな。
身体のダメージが大きすぎて気持ちがずずっと引きずられちゃう。
客観性をもって冷静になんてなれない。なれるはずがない。無理だ。
だって!自分の身体の中がどんなことになっているのか、全然想像ができないんだもん!
凹んでたはずが、いつの間にか胸の内でブチ切れはじめた。
が、すぐに落ち着かざるを得なくなった。
なぜなら、感情的で、客観性をもてず冷静な判断が全くできない、ダメな大人の典型みたいな人がやってきたから。
そう。母である。


よくもまあこんなに弱れるなあと感心してしまうほど、〝私、弱ってますオーラ〟を存分に放って病室に入ってきた母は、「ああ、生きて…起きてた…」と言って早速目を潤ますと、座るのもそこそこに、今朝方見たという夢の話を始めた。
人の夢の話ほどつまらないものはないが、まあ聞いてみよう。

「私が茶の間で寝ちゃってるの。そうするとね、MYKちゃんが起こしにくるの。それで私が起きるとね…(グスッグスッ」
「オチ喋る前に泣かないで」
「オチって…。ぜんぜんおもしろい話じゃないよ(グスッグスッ」
「泣いてるもんね」
「そう、悲しい話なの。でね、私が起きるとね、MYKちゃんが、『お母さん、見てこれ』って言って白いレジ袋を見せようとするの」
「ああ、このあいだの
「そう。あの時みたいにレジ袋を見せようとするんだけど、中身がなんだか知ってるから見たくなくて(グスッグスッ」
「うん」
私はね、逃げるの
「え?」
「こたつの周りをね、ぐるぐるぐるぐる逃げ回るの」
「は?」
「なのに、MYKちゃんったら酷くてね、『見て!ねえ見て!』って言って笑いながら追いかけてくるのよ…(グスッグスッ」



ホラーだな。



こんな疲れる夢をみたら眠った気がしないだろうに、母はこの後もたびたび、同じ夢を見ては飛び起きるようになる。
ごめんね。

ホラーなオチがついたところで、今日も今日とて泣き続ける母に明るい話題をふる。

「今朝お粥食べたんだよ」
「えっ!」
「(献立表を見せながら)三分粥だって。ごはん粒ちょっとだけだったけど、二口食べたの」
「すごーーーい!昨日私が猛抗議したからだね!
「絶対違うから」
「で、お昼も出るの?何が食べたい?」

何も食べたくないけれど、そんなことを言ってまた泣かれたら面倒なので、いい感じの答えを必死で考える。

「お粥かな…」
「何粥が食べたいの!?」
「普通の…」
「わかった!ちょっと待ってて!家に帰って、おいしいお粥作って持ってくるから!」
「…待て」
「(待たずに)梅干しも持ってくるわ!そうだ、から揚げ作ってこようか?もも肉がいい?胸肉がいい?」
「…気持ちだけありがたく」
「どうして!?」
「食事制限なくなったら頼むから」
「どうしてぇ…。MYKちゃん、から揚げ食べたら絶対元気になるのにぃ…(メソメソメソ)」



死ぬよ。



どれだけ丁寧に答えたところで母のから揚げ攻撃は止みそうになかったので、トイレに行きたくなったのをいいことに、「ちょっと待ってね」と母の話を遮ってナースコールを押した。
ほどなくして、看護師の牧さんが、看護師1年生を連れてやってきた。



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■ 経緯

2012年12月:ひどい腹痛と呼吸困難で総合病院の救急外来へ。入院。左卵巣が破裂していると言われる。転院。余命1ヶ月未満と診断される。破裂した卵巣の摘出手術後、左卵巣がん(類内膜腺がん)3c期と告知される。抗がん剤治療開始。

2013年01月:ヅラをかぶる。
2013年02月:「ヅラが飛びそうな強風のため」という理由で休もうとするも会社のボスに却下される。
2013年05月:抗がん剤治療終了。
2013年07月:子宮、右卵巣、リンパ節などの摘出手術。
2013年08月:再び抗がん剤治療開始。術後腹壁瘢痕ヘルニアの予兆。
2013年10月:抗がん剤治療終了。月1回の通院で経過観察へ。術後腹壁瘢痕ヘルニアと診断される。

2014年02月:術後腹壁瘢痕ヘルニア手術。
2014年04月:CTの結果を経て、すべての治療終了。
2014年10月:抗がん剤治療終了から1年経過し、通院が2ヶ月に1回となる。ヅラを脱ぐ。
2014年11月:健康診断で人生最重量を記録する。

ブログの下書きとなっている当時のメモ

2016/10/17 | trackback [ 0 ] | comment [ 5 ] | がん告知まで


よくコメントをいただくYUZUさんからこんな質問がありました。

2年前の闘病ブログですよね?
闘病日記みたいなのをつけてたんですか?
私も、術後の痛み、 先生や看護士さんと会話…いろんな事を思い出しますが…2年近く経つと忘れている事も、いっぱいあって…特に痛みは記憶の中で薄らいでいますね!
今、思えば簡単に記録すれば良かったなって思います。

いい機会なので今日はこの質問についてのお話を。


このブログは、2012年11月30日の朝に起きた異変から始まり、いまは入院9日目、2012年12月9日の話を書いています。
2年どころか、今から4年近く前の話です。

最近になってようやく、まあまあコンスタントに書けるようになったので、私が卵巣がんを患ったことを知っている女友達数人に、「卵巣がんブログを書いている」と話して読んでもらいました。
彼女たちから真っ先に言われたのも、「日記つけてたの?」でした。

結論から言えば、日記をつけてました。

最初は携帯電話にメモをするかたちで、母に筆記用具を持ってきてもらってからは罫線の入ったA6サイズのメモ帳に手書きで、日記のようなものをつけていました。
いまそれを読み返してみると〝日記のようなもの〟でしかないのですが、書こうと思った本来の目的は違いました。
私が書きたかったのは、〝エンディングノート〟です。
母の様子から察するまでもなく、最初から、「これは死ぬ系の病気だな」と自覚していたので、遺言ではなく、「エンディングノートを書かなければ」と、入院初日から思っていました。



エンディングノートに一番書きたかったのは、契約しているたくさんのサービスと、そのパスワードです。
当時45歳。現在49歳。いまのところは暗証番号をメモしなくとも、頭の中で覚えていられますが、死んでしまえば私の頭の中にある全ての情報が消えてしまいます。
面倒なことはぜんぶ娘がやってくれる生活を長くしていた母が、私がいなくなった後、何の情報も持たず、相続を含む、膨大な事務作業をこなせるとは到底思えませんでした。
父が亡くなった時、母はまだ50代で私は20代でしたが、母は放心して使いものにならなかったので、相続の手続きなどは、父の会社の人に手伝ってもらいながら私がやりました。
20数年前でそれなのに、70代になった母が出来るようになっているとは思えません。
それどころか、うちの母に限っては、私の葬式を出せない可能性までありますが。
だから、たとえば母が、信頼できる誰かの手を借りて私の死後の後始末をするにしても、私の頭の中にしかないものは書き起こしておく必要があると思ったのです。
最初は携帯電話にメモし始めましたが、携帯電話が壊れたら意味がないので、メモ帳&ペンというアナログに変えて、携帯電話にメモしたものも転記しました。
書いておきたかったのは、

・銀行口座などの金融資産
・クレジットカード
・Facebookをはじめとする無料サービスのアカウントやパスワード
・車の処分
・その他遺品の処分
・生命保険金の使い道の提案

など。
プロバイダやYahoo!プレミアムなど、有料サービスのほとんどは、クレジットカードが使えなくなればサービスが停止するので除外しました。
病床でもできるものは自分で解約しようと思いましたが、解約するタイミングの見極めが難しいし、少し調べてみると、PCでしか解約できないサービスとか、書類を送る必要があるとか、モバイルで完結するには限りがあったので、とりあえず、全て書き出しておきたかったのです。

そんな意図で始めたはずの〝エンディングノート〟が〝日記のようなもの〟に変わったのはわりと早かったです。
既に書いた通り、強い痛み止めを使っている間は、意識が急に飛んでしまい、エンディングノートどころではありませんでした。
眠っていない時でも頭の中は常に靄がかかっているみたいな状態で、パスワードはおろか、物事を順序立てて考えることすらできませんでした。
ただ、自分がおかしくなればなるほど、「早くエンディングノートを書かなくちゃ…」という焦りが増していきました。
そこで、携帯やメモ帳を手にするのですが、とにかく頭が回らない。
そんな状態で書けることといえば、〝いま目の前で起こっていること〟くらいだったのです。



つまり、〝エンディングノートが書けない焦りで書き始めた日記のようなもの〟が、このブログの下書きです。



本来書きたかったお金や契約に関することは入院10日目の夜から書き始めましたが、頭がクリアになれば、45歳の独身女のエンディングノートなど1日もかからずに書き終えてしまいます。
先に挙げた以外に書いたことは、〝延命措置〟と〝葬儀〟のみ。
それを書き終えるとエンディングノートとしては書くことがなくなったので、そこからは完全な〝ただの入院記録〟になりました。
ブログの下書きになることはもちろん想定していなかったし、とにかく毎日暇だったので、回診にきた医師の名前と主な会話、病室担当看護師の名前と主な会話、処置、検査、各種数値、自主的に行ったこと、腹の立ったこと、良かったこと…など、やたら長く、鬱陶しいほど細かく書いているのですが、改行すらも惜しんでページにみっしり詰めこんだその文字は、呪いの書かよ!と言いたくなる密度でだいぶ気持ち悪いので、書けるところはとっととブログに書いてしまってメモ帳を捨てたい、というのが正直なところです。



ちなみに、そのメモ帳は常にベッドの上に置いていて、近くに人がいない時は暇さえあれば気づいたことを書きまくり、人が来ると書くのをやめて閉じていたので、先生たちや看護師さんたちからは〝MYKさんの閻魔帳〟と呼ばれていました。



当たらずとも遠からず。



閻魔帳
こんなふうに、文字だらけで真っ黒になったメモが1,000枚超(!)あります。




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■ 経緯

2012年12月:ひどい腹痛と呼吸困難で総合病院の救急外来へ。入院。左卵巣が破裂していると言われる。転院。余命1ヶ月未満と診断される。破裂した卵巣の摘出手術後、左卵巣がん(類内膜腺がん)3c期と告知される。抗がん剤治療開始。

2013年01月:ヅラをかぶる。
2013年02月:「ヅラが飛びそうな強風のため」という理由で休もうとするも会社のボスに却下される。
2013年05月:抗がん剤治療終了。
2013年07月:子宮、右卵巣、リンパ節などの摘出手術。
2013年08月:再び抗がん剤治療開始。術後腹壁瘢痕ヘルニアの予兆。
2013年10月:抗がん剤治療終了。月1回の通院で経過観察へ。術後腹壁瘢痕ヘルニアと診断される。

2014年02月:術後腹壁瘢痕ヘルニア手術。
2014年04月:CTの結果を経て、すべての治療終了。
2014年10月:抗がん剤治療終了から1年経過し、通院が2ヶ月に1回となる。ヅラを脱ぐ。
2014年11月:健康診断で人生最重量を記録する。